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「私たちの神は、全てを修復することができる」
(Our God Can Fix Anything)


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By David Wilkerson 2000年2月14日
__________

皆さんは(旧約)創世記の中で、神さまがアブラハムにお現れになった話を覚えていらっしゃると思います。この家長は樫の木の下に三人の男が突然現れたとき、熱い昼下がり、自分の天幕の入口に座っていました。アブラハムはこの人たちに会いに走って行き、食事の用意をし、彼らを迎えました。

会話の中で、主はアブラハムに妻のサラが居場所を聞き、そして神は驚くことを言いました。

「…、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(創世記18:10)

サラは天幕の中て、その会話を聞いて、その話しに笑ってしまいました.。そんなことはあり得ない、と彼女は思ったからです。自分は子供をみごもる年齢からは離れてしまってい て、アブラハムは子供を授けるには年を取りすぎていたからです 。しかし神さまはサラの笑いを聞かれ、こう言われました。

 「…サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。…」(13-14節)

私がこのメッセージを書いたのには、神さまが現代の神の子らに同じく問うておられるからです。主にとって難しすぎることがあるのでしょうか。私たちは、それぞれ、人生において困難なことに直面 します。そして、その中で、神さまは私たちに問われるます。「あなたの問題は、私が解決できないと思うのか。それとも、たとえ不可能の中でも、わたしは解決出来ると信じるか 。」

イエスさまは私たちに

「人にはできないが、神にはできるのです。」ルカ18:27

)と言われました。あなたはこの主の言葉を信じますか。主があなたの結婚、家庭、仕事、そしてあなたの将来に不可能と思っていることを行われると信じますか。 私たちは他の人たちには神がしてくださると話します。私たちの愛する人たちが困難なに耐えているのを見て、「頑張って。主を見上げていて。神さまは全てが可能なの。主を信頼し続けるのよ。主は不可能を可能にされる神さまなのだから」と言います。

しかし、本当に私たちはこの真理をも信じているでしょうか。主を疑ったサラは、おそらく自分の友人には、このようにアドバイスしたでしょう。もし彼女が他の、子供を欲しがっているが、年を取りすぎている、敬虔な夫婦の同じ状況を聞いたとしたら、どうしたでしょうか。夫婦は神さまが子供の誕生を約束されたのを信じていましたが、自分たちはどんどん老いていきました。そして彼らは、その幻に対する確信を、少しずつ失って行きます。

 もし皆さんがサラに、この夫婦に対してどう言うかと聞くなら、彼女はおそらくこう言うでしょう。「あなた方は諦めてはいけない。幻に対して希望を捨ててはいけない。 あなたは不可能を可能にする神さまに仕えているのですから。主は必ずそれを行ってくださいます」 しかし、サラ自身はこの事が信じられないのです。そして多くのクリスチャンも同じです。私たちは周囲に神の力を大胆に宣べますが、私たち自身に対 しては神の言葉を信じません。


神さまが不可能を可能にされる方と信じなければ、
私たちは神さまを、本当には、信じてないのです。


神さまは全ての造り主であると信じるだけでは十分ではありません。主は、私たちの人生において、不可能を可能にする方と信じる必要があります。聖書はこのことについてはっきりに言っています。つまり、もし、このことを信じないなら、私たちが主を全く信頼していないことになるのです。

 私は考えています。人がどんなにたくさんのカウンセリングを受けても、神の奇跡を疑っているなら、何の益もありません。誤解しないでください。私はクリスチャンカウンセリングに反対していません。しかし、 どのような問題であっても、神さまがそれを解決すると完全に納得していない人には、カウセリングはなんの役にもたちません。

 牧師としてカウセリングをするとき、カウンセリングに来た夫婦が、神さまが彼らの関係を救えると信じないなら、私は彼らに何も与えられないことを知っています。状況は彼らの目には救い難いものに見えるかも知れません。彼らは何年もかかって、恨み辛みを積み重 なったかもしれません。しかし、彼らは神さまが不可能を可能にしてくださると確信しなくてはならないのです。

 このような夫婦に、私はすぐにこう言うことにしています。「そうですね、カウンセリングしましょう。しかし、まずお聞いておかなくてはならないことがあります。あなたは神さまが本当にお二人の夫婦関係を回復することが出来るお方であると信じておられますか。あなたの目には状況がどんなに希望のないものに見えても、神さまはあなた方の関係を回復する力があるという信仰を持っておられますか」

 しかし中にはこう言う人もいます。「あなたは私が夫(または妻)と、どんなことがあったかを、知らない。私は深く傷ついています。私の心の傷は、あなたには理解できない。」このような反応は、彼らが悪魔の語る嘘を、鵜呑みにしていると物語っています。悪魔は彼らの状況にはもう救いようがないとに信じ込ませているのです。しかし、イエスさまは神の子ら、一人ひとりに、明確に語っておられるのです。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカの福音書18:27)

この国の色々な場所で、クリスチャが夫婦関係を放棄しています。私の友人の牧師や教役者たちにも離婚する人がいます。彼らと話すと、彼ら自身、自分たちの結婚生活がいやされ得ると信じていないのです。神さまが不可能に見えることを、彼らのために行ってくださるとは信じられないのです。 そして、クリスチャンの夫婦で、自分たちの結婚を諦め、戦いを放棄してしまう人たちは、彼らの結婚が回復されて欲しいとは真に願っていません。事実、私のところに相談に見える方々の多くが、あらかじめその関係を断ち切る決心をしておられるのです。彼らが私のところに来る唯一の理由は、彼らが既に決めた方向に、私のお墨付きが欲しいからです。

愛する皆さん。あなたの状況の中、神の御言葉を絶対的に信じなければ、世界中のどんなカウンセラーにもあなたを助けられないのです。あなたの人生のどのような問題でも、神さまに解決できないものはないのです。そうでなければ、あなたのキリスト信仰は空しいものなのです。なぜなら、あなたは神さまをある程度までしか信じていないのです。不可能を可能にする神さまであると、本当は信じてはいないのです。

ある牧師夫人が、ご主人の習慣的な嘘について、私たちに手紙をくださいました。この人の嘘は本当に見え透いていて、何度も暴露されてました。そして教会員の人たちがこのことについて指摘しても、彼はそのことを否定し続けました。彼の奥さんはこう書いていました。「私は夫を恥ずかしいと思います。子どもたちも彼を信頼してはいません。彼は力強い説教をしますが、真実を語ることは出来ないのです。それは彼の中に真実がないからです」そして彼女は手紙をこう閉じていました。「私は夫の元を去ろうと思っています」

私はこの女性に同情します。しかし神さまが不可能を可能にしてくださると彼女が信じていないことも私には分かりました。彼女はある程度しか神さまを信じてないのです。だから、そこから去ることを決めたのです。しかし、クリスチャンにとって、その伴侶が身体的に虐待を加えない限り、離婚は選択肢ではありません。身体的虐待のあるときは、出て行くべきです。それ以外はどのような場合も、主は、はっきりと、「私はあなたの神である。私には解決できる」と言われるのです。

私はこの女性がこう書いていてくれたら良かったのにと思います。「私は、子どもたちが夫の機能障害の後継者に成りつつあるのを見ています。そして主人は、罪を犯しつつける事で、いつか講壇からも降ろされることでしょう。しかし私はどんな問題も修復することが出来にある神さまに仕えています。私は主がこの夫婦関係を救い、家庭を回復し、教会をもう一度建て直してくださると信じています。ですから私は、どんな事があっても、夫と共に居続けようと思います。私は神さまが言われることが真だと―神に不可能なことは何もないということ―を信じます」


マルコの福音書には絶望的な状況が描かれています。
それは修復するのは不可能に見えました。


マルコの福音書9章には、途方に暮れた父親が悪霊に取り憑かれた息子をイエスさまの弟子たちのところに連れてきました。この少年は、ただの問題児で、反抗的だったのではありません。彼はたくさんの悪霊に取り憑かて、その悪霊はこの少年の行動悉く制御していました。彼の状態は地元に有名なはなしでしたから、彼が近く来るのを見たら、人々は子供を急ぎ家の中に入れたことでしょう。

 この哀れな少年には全く希望はないと思われていました。彼は聾唖でしたから、喉から吐き出すような声しかなかったのです。狂犬のように口から泡を吹き、その身体は内なる人の戦いのために骨と皮にまでやせ衰えていました。彼の父親は常に彼を見張っていなくてはなりませんでした。それは悪霊たちが、父親の目の離れた隙にこの少年を近くの川や、湖、または火の中に投げ込んで殺そうとしていたからでした。何度、この父親は沼から息子を引き上げ、息を吹き返させなくてはならなかったことでしょう。息子を自殺から守ることだけで、父の日々は費やされていたに違いありません。この少年の身体に傷や火傷の後がいったい幾つあったのでしょうか。そして誰も助けてくれる人もなく、息子のそのような姿を日々目にしていた父親は悲嘆に暮れていたのではないでしょうか。

 そしていま、父親は弟子たちの前に立っていました。サタンは少年に働き始めました。彼は口から泡を吹き、地面を転げまわり、身体を曲げて地面を転げまわり始めました。聖書は、弟子たちがこの少年のために祈ったと語っています―それは恐らく長い間だったのでしょう。しかし、何も起こりませんでした。

 それはまさに不可能な状況でした。すぐにその場の疑い深い律法学者達が彼らに言い始めました。「なぜこの少年はいやされないのか。これはあなた方の主には難しすぎるのか。このような状況では、悪魔の方が力を持っているのか。」そこにイエスさまが来られました。イエスに何が起こっているのかと聞かれて、父親はこう答えました。「私の息子をお弟子たちに連れてきたのですが、彼らには息子をいやせません。もう絶望的です」これに対してイエスさまは簡潔に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコの福音書9:23) こう答えました。 キリストはその場の全員に「あなたは、私が悪魔の支配していること以外なら出来ると思っているのですか。いいですか、私には解決できない問題、不可能な状況などないのです」と語られたのでした。

 そして、たった一言で、イエスさまは不可能を可能に変えられたのです。「イエスは、・・・・、汚れた霊をしかって言われた。『おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない』。」(25節)その時、少年は死んだようになって、地に倒れました。聖書はつづきを「しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。」(27節) と記しています。このときの喜びとはいか程であったでしょう。清められ、解放された少年は父親のところに駆け寄り、抱きついたのではないでしょうか。そして父親の心は喜びに溢れていたことでしょう。神さまは全てを修復されたのです。

 なぜ聖霊さまは、マルコにこの逸話を福音書に記すようにしたのしょうか。神さまは、この事件以来の全て親が、不可能に思える状況に子どもたちがいても、神を信頼できると、教えたいが為と思います。主は「どんなことでも、誰でも修復できる。もし、あなたがただ信じるなら、全てのことは私をよって可能である」と仰っています。

 今日、多くクリスチャンの親が、子どもたちが悪魔の力の下にあるので苦しんでいます。この教会の会衆にも、バスに乗って、州北部にある刑務所に息子を会いに行く母親が何人もいます。彼女らはかつて優しい子であった息子を、厚いガラスの向こう側に見なくてはならないという苦しみを知っています。何かの理由で息子は麻薬を知り、薬癖を満たすために強盗を働いたのです。いま息子は刑務所で、以前に増して心を頑なっています。何年も息子のために祈ってきた母親は、ここに来て希望を失いつつあります。もはや息子が変れることはないと思い始めるのです。

 また、娘たちが麻薬に走るなどとは夢にも思わなかった父親たちもいます。彼女たちが、悪いグループとつきあい始めるのを彼らは見ます。彼女は反抗的になり、父は弟や妹たちへの影響のために、家を出て行くように言われます。そして今、彼女は麻薬を買うために、身体を売っています。父親は、夜になると娘のことを思って涙を流します。彼は娘を永遠に失ってしまったと信じてしまっているのです。

 麻薬中毒の息子をスラム街に探しに行った父親を私は知っています。彼は聞き廻って、ようやくある売人に中毒者の溜まり場を教えてもらいます。その場所に足を踏み入れたとき、彼は息子の抜け殻を見ました。少年の身体は麻薬で骨だけになっていました。家に帰ろうと言われたときも、息子は父の目も見ないで、一言、「出て行ってくれ、これがわたしだ」と口にしただけでした。

 悲しみの涙に暮れた父親はそこを出て行きました。彼は希望を全く失い、苦しみ、「あそこにいるのは私の息子だ。あの子は死んでいく。なのに、私の助けを拒んでいる」と心の中で叫びます。悪魔はこれらの親に、彼らの子供に希望はなく、彼らの問題決して解決されないと言います。力強い嘘で、神は彼らを助けることは出来ないと確信させているのです。

 あなたはいま、未信者のご主人に希望はなく、彼が救われることなどないとお思いかもしれません。また、あなたは毎夜飲みに出かけて行く奥さんに対して諦めているかもしれません。しかし、誰も神さまが取り戻せないほど遠くへ行ってはいないのです。今日の多くのクリスチャンの夫婦は次のように告白します。「私は何年も私の配偶者のために祈ってきました。そしてある日私が諦め、希望を捨てそうになったとき、神さまは、愛する人を解放し救ってくださったのです」

 私たちは誰のことも決して諦めてはいけません。なぜなら、神さまに不可能はないからです。


あなたが死んだと諦めているもの全てに、神さまは命を戻すことができます。


マルコ伝5章はイエスに娘をいやして欲しいと頼みに来た、必死の会堂司ヤイロの話を伝えています。12才の少女は死の瀬戸際で、ヤイロはキリストに家に来て、娘に手をおいてくださいと懇願しました。イエスはこれを承知されましたが、その道のりで、長血を煩っている女をいやされました。(この人は主の衣をさわったときにいやされたのでした)そして、イエスがそこにおられたとき、使いの者が悲しい報せを持ってきました。ヤイロの娘はもう死んでしまったということでした。その者は会堂司に言いました。

「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」(35節)

ヤイロの心は悲しみでいっぱいでした。彼はこう思ったのです。「もし私たちがもう少し早く着いていたなら…しかしもう遅い。私の娘は死んでしまった」しかしイエスは次のように言われたのです。

「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

彼ら一行がヤイロの家に近づいたとき、家の方からは悲しみと嘆きの声が聞こえてきました。それはヤイロの家族と隣人たちでした。なんという対照でしょう。そこには人となられた神、宇宙の造り主、私達の想像一切を行う力を持つお方がいて、その前で嘆き悲しんでいる人々がいたのです。言い換えれば、彼らは「神さまは希望をつなぐ事ができる限りは、私たちを助けられるが、命が去ってしまった以上、主に呼ばわる必要はもうない。神であっても、このような状況を回復することはできない」と証ししていたことになるのです。

 現在、どれほどのクリスチャンが、自分たちの抱えている問題には解決の道はないといって、神さまに呼ばわるのを止めてしまっていることでしょう。多くの人は自分たちの人生の何かが死ぬまでは神さまを信頼します。私がここで言っているのは人の死のことではありません。結婚生活の崩壊、人間関係の断絶、夢の無実現、愛する人の救いに対する失望など、皆さんの人生で修復したり、変えたり、回復したりすることが不可能だと思っていることを指しているのです。

 イエスはこのような不信仰を責められました。ヤイロの家で泣いている人々に告げられました。

「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(39節) 

主は「この状況はあなた方の想像しているものではない。あなた方は希望が一切ないと思っている。しかし私は回復を宣言する」と言われたのです。それから、少女の部屋に赴かれ、わずかな言葉がかけられ、少女を生き返らせられたのです。

「すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。。。。。。」(42節)

なぜ聖霊さまはこの話しをマルコの福音書に含まれたのでしょうか。聖霊様は私たちに、神さまにとって「死にすぎている」ものや、「遠すぎるもの」などないということを教えるためではないでしょうか。主は私たちに「私を信頼し、あなたの問題解決を願いなさい。私には遅すぎることはない」と言っておられるのです。

事実、神さまにはこの問題は解決できないと言うとき、私たちは神を嘘つきと呼んでいるのです。

「・・・神を信じない者は、神を偽り者とするのです。」(Tヨハネ5:10) 

皆さんはヤイロの家族やその友人たちのように座して、その現状が如何に絶望的かを話しておられるでしょうか。もしも、あなたが「神さまは不可能を可能にされる方である」と告白しないで、嘆き心配しておられるなら、あなたは世に神は嘘つきであると言っているのです。


イエスさまからの一言だけで、死んだものが命をふきかえすのです。


神は私たちの人生で、死んでるように見えるものを、たった一言で回復できます。あなたはお金がなくて、支払いができないのですか。それは主の弟子たちも同じたったのです。そして主は超自然的な解決したのです。

税金の納期が来たとき、イエスと弟子たちはその支払いをするお金がありませんでした。主はどのようにそれを解決されたのでしょう。主はペテロを、魚を取って来るよう言いました。そして彼が最初に取った魚の口に、ひとつの硬貨が入っており、その硬貨は税金を納めると言われたのです。私にはそのとき、何がペテロの脳裏を過ぎったか想像できます。彼はきっと、「魚の口に税金用のお金?それは見物だ。長年漁師をしてきて、魚の口には虫や釣り針、海草なんかが入ってはいても、硬貨なんて入っていたためしがない」と思ったに違いありません。ところが、ペテロが最初の魚を釣り上げてから、その魚の口を開いてみると、そこには光る硬貨が入っていました。その金額はイエスさまが言われた通り、彼らの税金を払うのに十分な額でした。

 なぜ聖霊様は福音著者にこの話を記録するようにされたのでしょうか。そして、なぜイエスさまはこの状況を奇跡によって解決されたのでしょうか。献金をつのるか、弟子たちを一日日雇いに行かせて、税金のための金額を準備しなかったのでしょうか。私はここでも、神の子らがイエスさまは不可能を私達のためにされる方であると信じることができるように、奇跡を行われたと信じます。主はどんなお金の、家庭の問題も、圧倒されそうな状況も、解決することができるのです。

 主はエリヤを烏の運ぶパンでやしない,やもめの穀物樽を干ばつの間絶やさないようにし、別の寡婦の壺に油を与えて、借金取りたちから救い出し、また数匹の魚と幾つかのパンから五〇〇〇人の人々に食べさせ、更に四〇〇〇人の人々に食べさせた、その同じ神であると私たちに知らしめているのです。主は私たちの人生において、時に奇跡だけが解決をもたらすこともご存知なのです。また、それがどのような状況であっても、私たちのために不可能に見えることを行うことができると言って下さるのです。

 もちろん私たちは神さまの御約束によって、奇跡を当然行ってくださることを期待することもあります。私は何年も前、二十代の若い牧師としてそんなことをしたことがあります。私は働きのために、良い案だと思っていました。しかしそれを実行に移す前に主に相談はしませんでした。その結果、私は返す見込みのない5000ドルの借金を、抱え込みました。(今で言うと25000ドル程です)

 必死の思いで、私は聖書に「神はあなたの必要を全て満たしてくださる」とある箇所を見つけて、片っ端から宣言し始めました。そしてある日、美しい声がこう私に語りました。「デイビッド、明日の正午にチェスター通りに行き左側を歩きなさい。ある男があなたのところに5000ドルの入った封筒を持って近づいてくるだろう。彼は私の使いだ。彼はその封筒をあなたに手渡すだろう」

私は「主よ感謝します。あなたは本当に真実な方です」と心の中で言いました。そして翌日、私はチェスター通りに赴き、その男が現れるのを待ちました。この町は人口1200人ほどの町でしたから、誰も通りを歩いてはいませんでした。みな日中は働いていたのです。ですから長い間、私は誰も目にすることはありませんでした。私はそこでほとんど一時間ものあいだ「主よ彼はどこにいるのですか」と心の中で問いながら待っていたのでした。実際ある男性が近づいてきたのですか、彼は煙草を噴かしていて、天使でないことは明白でした。

 私は失意の中、家路につきました。私は祈りました。「私はなぜこんなに惑わされたのでしょう。で、私はどうしていったらいいのでしょうか。お父様、あなたに信頼しなかったことを許して下さい。この一件の全てをあなたの御手にお委ねします」 数日後、教会のある男性から電話がありました。彼は「あなたの必要について耳にしたのですが、力になってくれそうな人を知っています。彼は他の町に住むクリスチャンの銀行家です。電話をしてみては如何ですか」 私はこの銀行家に連絡をしてみました。そして彼は当時聞いたこともなかったことを、私のためにしてくれたのです。彼は無担保で五〇〇〇ドルのローンを組んでくれました。そして、「毎月五〇ドルずつ返してくだればいいのです」と言ってくれたのでした。

 神さまは私の置かれていた状況を修復してくださいました。そしてこのことを通して、ひとつのことを語って下さいました。「デイビッド、私には天使を送って、あのお金を与えることもできたのだ。しかし、私はあなたを愛するがために、あなたに学んで欲しかったのだ。もしもこのことを学ばなかったなら、あなたはまた愚かなな判断て、10万ドルの借金を抱え込むことになっただろうから」 私は、たとえ主が不可能を可能に変えてくださる方だと信じていようとも、自分の無責任な選択のために、御使いが突如現れてくれることを期待できないと学んだのです。


ここに神さまの最も偉大な業があります。
神は私たちの困難な状況のみならず、罪の問題も解決できるのです。


最近、私たちはある囚人から心の引き裂かれるような手紙を受け取りました。彼はこう書いていました。「デイビッド牧師、私は性的変質者で、そのせいで刑務所にいます。私は生まれもってではなく、後天的にこうなったのです。私は三度結婚もして、四人の子供がいます」 「実際、私は変質的なものは何でも好きです。あなたの想像しうるものは、おそらく私は試しているでしょう。私はこれを止めたいのでが、止めることができません。突然煙草を止めましたが、それは大したことではありませんでした。ポルノも時には止めることができます。私は神さまのいやしを本当に信じています。何度も懇願し、叫んで助けを求めました。でも、この性倒錯の問題から逃げ出す突破口を見つけることができないのです」

「主の御心を行いたいという思いはいつも心にあります。しかしいつもそのお思いを押しやって、情欲に溺れてしまうのです。私は神さまにもう二度としないと言いますが、必ずまた戻ってしまうのです」 「私は主がもう、うんざりしておられると思うと心が痛いのです。礼拝堂に行くとき、自分には二つの顔があるのだと思います。ここには私がよいアドバイスをしたからと言って、私を尊敬してくれる人がいます。でも、私自身がそれを守れないでいるのです。私はピアノを弾いて礼拝堂で歌も歌います。でも、自分がおかしいのが分かっているので、どうにも間違っていると感じるのです」「また誰か罪のない人を犠牲にするくらいなら死んだ方がましなのです。でも,地獄にも行きたくないです。私は神さまに仕え、主の愛が欲しいのです。私はこんなことをしているのが嫌なのに、同時にそれを好んでいるのです。どうしたらいいのかが分かりません」

私はこの青年に希望を捨ててはならない、神さまはあなたの倒錯した思考を直すことがおできになる、主はあなたにいやしをもたらすことを願っておられると言うのです。 私はある時期、同性愛者が変えられることについて諦めてしまったことがあります。なぜなら、彼らの内にいやしが起こることは稀だったからです。私たちのミニストリーでは同性愛者の人たちのためのホームを開設していました。しかしそれは悲しい結果に終わったのです。麻薬中毒やアルコール中毒の解放プログラムは全てうまくいきましたか、同性愛者に関しては、勝利を見ることは少なかったのです。

 それから、主は私のもとに、縛りから解放された同性愛の人たちの証を贈ってくださるようになりました。また、最悪の的倒錯嗜好から解放された人々についての報せもうけるようになりました。現在、私はすべての人たちに、イエスさまの深く、心震わす愛に触れられた人に言います。あなたが自由になりたいのなら、神さまはあなたがどんな葛藤を抱えていようとも、解決を与えてくださいます。主はあなたの悪癖を打ち砕き、自由にすることがおできになります」

 しかし、あなたの人生において、神さまができないことは何もないということを信じなくてはなりません。敵の罠で打ち砕くことのできないものは何もないのです。親愛なる聖徒の皆さん、信仰を手放してはいけません。神さまが必ずあなたを変え、あなたの人生を変化させてくださることを信じるのです。もし主が、困窮したやもめに必要を備えてくださったのなら、悪霊に憑かれた少年を解放し、ヤイロの娘をいやしてくださったのなら、あなたのためにも解決を与えてくださいます。
 

私たちの神は如何なるものでも修復することが出来るのです。


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