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「自分の霊的状態を感覚で判断してはならない。」
(Don't Judge Your Spiritual Condition By Feelings )


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By David Wilkerson 2001年2月19日
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使徒パウロはテサロニケ人達へ、彼らが主の御前において喜ばしい歩みを学んだと奨励しました。彼は、

「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私達から学んだ」

と言い、それから、激励を付け加えました。

「ますますそのように歩んでください。」(テサロニケ人への手紙T4:1)

ますますというのは、富む(増し加わる)ようにの意味です。パウロはこう言っているのです。「あなた方は正しい福音が語られたなかに留まったので、あなた方には確固とした基盤が築かれた。だから、あなた方は恵みの全ての業において、つまりあなたの信仰、知識、愛に富むようにならなければならない。」

パウロは、コリント人達へも、その富むことについての話をしています。

「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私達に対する愛にも富んでいるように、この恵みの御業にも富むようになってください。」(コリント人への手紙第二8:7)

彼は、言い換えればこう言ったのです。「あなたの人生に神の御霊が大きな変化をもたらした。よって、あなたは、あらゆることに、つまりあなたの時間、お金、才能を、もっと差し出すことを求められている。」

これらの文ははっきり語っています。神の御言葉で養われた人は皆、恵みが増し加わる事が期待されているのです。神は、教会を成長させるというこの特別な目的の故に、牧師、教師、宣教師達に賜物を授けらました。キリストにあって、信仰者は誰も赤児のままでいてはいません。私達は神にあって成長し、偽りに失わせられないように期待されています。

イエス御自身、私達の歩みが絶えることなく富む事を語っています。

「わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネの福音書10:10)

キリストはテアテラの教会を、恵みの御業において成長した事で褒められました。

「わたしは、あなたの行いと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることをしっている。」(ヨハネの黙示録2:19)

イエスは、要は、こうおっしゃっているのです。「あなたは、始めの頃より今のほうが熱心だ。あなたの内にあるわたしの命を、より豊かに育つようにさせたのだ。」

箴言はこれをそのまま映しています。

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

そしてヨブはこう宣言します。

「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」(ヨブ記17:9)

キリストのからだにおいて、無精、怠惰、又発育不良などをあってはならないのです。そこであなたは、主にあるあなたの成長はどうでしょう。あなたの信仰、希望、愛、分け与えることが増し加わっていますか。もしそうであるとしたら、あなたはどうその成長を計るでしょうか。

悲劇的な事に、多くのクリスチャン達は、自らの霊的成長を外面の状態によって判断します。勿論,信仰者達は,感覚ではなく信仰によって生きるべきですが、多くの人は、感覚によって霊的歩みを計ってしまいます。彼らは毎週教会に出席し、神の御言葉が語られるのを聴き、聖書を読み、熱心に祈ります。しかし彼らはちっとも進歩もしていないように感じるのです。ある聖徒は私にこう言いました。「私はもっと砕かれるべきです。私は以前はよく主の身前で涙を流したのですが、今ではそのようではなく、心優しくはありません、成長していないのです。」

他の人達は、多くの説教を聞いてもそのうちの少ししか記憶にとどめておく事ができないので、成長していないと判断します。彼らはかつてのように、神への激しく思いや熱心がないので心配するのです。

霊的な成長について、いくつかの考えを皆さんと分かち合いましょう。


1、クリスチャンは恵みのうちに成長しながら、それに気付いていない事があります。


あなたは、あなたの内でとてつもない成長が行われている事を気がつかないかもしれません。パウロは私達の霊的成長を、体の成長に例えました。彼は、魂は、肉体の関節、筋肉、筋と同じ方法で養われると言って います。彼はこの成長を、

「神によって成長させられる」(コロサイ人への手紙2:19)

と呼んでいます。

 その成長は「かしら」から始まります。簡単に言えば、あなたが「かしら」であられるキリストを信頼し、彼の内にとどまるなら、絶える事ない彼の命が、あなたの魂に流れるます。イエスはあなたに とって、常の命であり、決して枯れない、生ける流れなのです。それ故に、イエスの命はいつも、あなたが眠っている間でさえ、あなたへ照らされるのです。彼は、あなたが表面的にどう感じようが、日毎、新たな命を与えて下さいます。

イスラエルは荒野で四十年間も,どうやって生き延びたのですか?彼らは天からのパン、マナを糧としていたのです。この「御使いの食べ物」には、イスラエルの民が病気にかからないために必要な、全ての栄養がありました。神の民は、エジプトの病気にも決してかかる事がありませんでした。彼らの周りのあらゆるところで、カナン人やペリシテ人 は疫病で死んでいく時も、イスラエルはずっと病気にかからなかったのです。

今の私達には、キリストが私達のマナです。彼は,私達の為に天から送られたパンなのです。彼は、全ての罪に対抗する、私達の霊的抵抗力を強めて下さいます。私達は、このマナが自分 に働いているとは、外面的に、見ていないかもしれません。(ちょうど、わたしたちは肉体の免疫力が強くなっているのを、見られないようにです。) しかし、御言葉は、 全てイエスを愛する人が 、霊的な抵抗力が増すとと約束しています。

考えてみて下さい。あなたは、今でも試みられますが,年を重ねる毎に、世の誘いに抵抗する力が増すのに気付くでしょう。そしてあなたは、自分の周りに見みられる汚れを、もっと嫌悪するようになるでしょう。あなたは 、もうや、この世の様に考えたり語ったりしません。同僚達が「今日は金曜だ、パーティーだ。」と浮かれでいる反面、あなたは「日曜日まであと二日だけだ。」と考えます。それはあなたが成長しているからなのです。

月や星の事を見て下さい、固定され、動いてないように見えます。しかし、これらの星々は、時速何百マイルで宇宙を動いてます。クリスチャン、ひとりひとりも同じです。私達の成長が、進まないで,留まっていると思っているかもしれません。しかし、神は私達に契約を与えて下さっています。

「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。」(詩篇92:13)

イエスはあなたを暗闇の王国から、彼の王国の良い土に植え替えて下さいました。そして今あなたは、彼の御国の土から、栄養分と命とを頂いているのです。パウロは記しています。

キリストの中に根ざし、また建てられ,また、信仰を堅くし、その中であふれんばかりでありなさい。」(コロサイ人への手紙2:7)

使徒は私達にこう言っているのです。「キリストの内にとどまるなら、あなたは 花が命を蕾むように、あなたも栄え,輝きます。イエスの命があなたからほとばしり出るのです。」


2・私達は、人生を日常の常や雑事の故に、霊的成長の状態を、間違って決め付けることがあります。


日々,あなたは退屈で同じと思える事を繰り返しします。例えば、あなたは週中、同じ時間に起き、同じ朝食を食べ、同じ道を運転して会社に行く。昼食を同じレストランで取り、家に帰る途中同じコーヒーショップに立ち寄り、運転中 は同じ局のラジオを聞きます。

私達の霊的な歩みも同じです。日曜日の朝、教会へ行き、同じ席に座り、同じ聖歌隊で賛美歌を歌い、祈りでさえも同じに聞こえるます。私達は同じ事を繰り返します。そして、こう考えてしまいます。「私は、 惰性でやってる事以外は、何にもしていないじゃないか。聖書を読み、祈る。聖歌隊で歌う。何の変りもない。同じ事を何年もしている。私は全く成長していない。」

あなたの感覚はなんという偽りでしょう。そのような考えは、あなたから神の恵みを奪います。実際は、私達は日々、終わりのない繰り返しに直面します。それが人生です。真の成長の証拠は、私達がまだ神にあっての歩みを辞めていないところにあります。私達は自らを日、週、年、毎に自らを神の御業に委ねているのです。

分かりますか。恵みにあって成長するとは、神の為により多く、または偉大な業をする事のではありません。真の成長は、私達が全て、神の故に、より強い確信を持って同じ事を繰り返しするところから来るのです。 それは小学1年生の時に読み書きを習うことと似ています。あなたは丸や線を描き、大きな文字を書く事から始めます。しばらくすると、文字が小さくなり、 文字間が狭まります。そして、何れ 単語を組み合わせ、文章を作るのことを学ぶのです。たとえ、それが同じ事を繰り返しだとしても、あなたは書き続けます。そして、その費やされた時間は無駄ではなく、価値あることが成し遂げられているのです。

私は、霊的成長は働きから働きへと転々とするよりも、繰り返しで成されると信します。私達が疲れたり、打ちひしがれたり、沈んだり、又はひどく苦しんでいるに も拘わらず、日常をこなす方が、全てが新しい時よりも、恵みを必要とします。あなたは主にあって行き詰まり、霊的に死んでると思うかもしれませんが、あなたはきっとキリストに あって日々富むようになっているのです。


3・私達は自分の現状を、間違った物差しで計る事がある


改心の経験は、それは新鮮で、特別です。たから、とても感動的でもあるのです。私達の魂に起こる変化は突然で、捉え切れないものです。罪と縛られた状態から、キリストに ある全く新しい人生へ突然向かえるのは、素晴らしい事です。

私達の初めの霊的成長は、子供が歩く事を学ぶのに似ています。赤ちゃんが最初の一歩を踏み出す時は、素晴らしく、また感動的です。お父さんとお母さんは微笑んで、「こっちにいらっしゃい。できる、できる。」と言ってその子を はやし立てます。彼はヨチヨチ歩きで、二三歩進み、転べばすぐに引き起こされ、褒めそやされます。兄ちゃん、姉さんも「いい子」と励まします。彼はみんなの関心の的です。そしてついに部屋を 渡りきった時には、皆がら歓声が沸き上がります。彼にこれはとても感動的な経験です。 

しかしこの赤ちゃんはすぐに、関心の中心ではなくなります。今となっては、彼は転んだら自分で起き上がります。家中を散らかしながら歩き回ります。鉢植えを倒し、鍋や薬缶をひっくり返し、箪笥から服を引っぱり出します。そんな事をしてので怒られます。突然物事が、それほど面白くありません。彼の初めの一歩は、 笑みと喜びに満たされてました。しかし、歩く事を覚えた今や一歩がそれほどスリルある、感動的ではありません。

あなたの霊的成長もそれに似ています。主にあって幼かった頃、あなたは神が特に関心を注いで下さると感じたでしょう。躓く度に、神があなたを支えるべくにそこにいました。しかし、パウロが書いているように、あなたはずっと 嬰児のままではありません。幼児が外の道に出るなと教れるように、あなたは火の中を歩かないようにと教えられますが、今やあなたが転んでも周りにあなたを起こしてくれる人はいません。神はあなたに、赤ん坊のよう なハイハイはやめて、御言葉に立って、信仰に歩く事を教えておられるのです。

もちろん、信仰がなまぬるく、無頓着になることもあるでしょう。多くの信者はそんな状態にいます。しかし、もしあなたの心がまだ神を慕っているなら、 イエスの「初めの愛を失う」との警告は、あなたに当てはまりません。自分が堕落するのを心配する事実が、御恵みにあって養われている証です。そのために、あなたは自分の心を探 り続けるのです。

しかしながらサタンは、たくさんのクリスチャンに、主にあってあなたは何かをなくしたと説得し、躓かせます。逆に、あなたの感情によって、神の愛を疑ったり、キリストにおけるあなたの立場を誤 る事こそが、むしろ、ひどい罪なのです。あなたが日々イエスあって生活するのは、あなたの熱意、涙、又は熱心さ、とは何の関係もありません。それは信仰のみによって支えられているのです。

もしも、あなたの救いが実は感情によるものだとしたら、どんなにあなたは当惑うか考えられますか。パウロは私達に、

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」(ピリピ人への手紙3:13)

事を促しています。あなたは決して、過去の体験の感情に頼っではいけせん。今日、重要なのは、神がされだあなたへの御約束を、あなたは信頼するかです。あなたは、真に聖書 的方法で、-つまり、感情の激昂や外面的な現象ではなく、栄光の御約束にあなた自身をゆだ
ねる方法で、-彼の神性を分かち合う用意がありますか。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロの手紙、1:4)

ペテロははっきり示しています。私達はキリストのご性質を、他のなにものによらず、神の契約にたって自分のものとするのです。

ある先生が私にこう自慢しました。「私はようやく、自分の若い時の信仰に戻れました。よく祈っていますし、聖書が私の糧となっています。神は私の教会の会衆に、私に熱 い説教を与えて下さいます。そして再び、私は失われている人々への強い愛を持っているのです。私はとても新たにさせられたように感じています。」しかし 、数ヵ月後に再び、この方は鬱の底へと戻りしました。

神は私達の人生に、回復や、新鮮な油注ぎをされます。しかし、それが私達の生きていく為の糧ではありません。私達は、御契約にあってたゆまぬ信仰を糧として生きるべきです。 私達がどんなに落ち込んでいようとも、御言葉は揺るがないものです。主は、私達への御約束を守られます。

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」(ユダの手紙24)


霊的な成長の証拠はたくさんありますが、ここに三つをあげてみました。


1.危機にあってあなたはすぐに慰めと御旨を求め、神のもとへ行く。


霊的成長の確実な証拠は、全ての問題や危機のごとことく、あなたが直ちにイエスのもとへ持っていくです。あなたは、どこに行くべきか
を学んだわけですから。

あるクリスチャン達は、絶えず悩みの中にいます。彼らは、会えばあなたに愚痴を言います。「私は次から次へと問題が起こるよ。どうしていいものか分からない。」彼らは自分の問題を、近くにいる誰にでも説明します。しかし、イエス様には何も応えられないと思っているように、彼らは問題をイエス様に全く持って行かないのです。

誤解しないで下さい。私は現実的で相談すべき問題に接しているクリスチャン達の事を言ってません。私達のミニストリ―も厳しい苦しみを耐えている聖徒達から、日々沢山手紙を受け取ります。そうではなく、私は教会にいる、「プロの不平屋」とも言える人達のことを言っているのです。彼らは愚痴をこぼすプロです。彼らの言う事を聞いていると、あなたはこう聞きたくなるでしょう。「君の神は死んでいるの。どうして、既に与えられているものを使わない。彼があなたを、征服者に勝る者として下さっている事を、あなたは知らないですか。」

あなたが全ての心配事を先ず主に持って行くなら、主はどれほどその事を喜ばれるでしょう。そして、誰が最後まで誠実にあなたを見守るか、あなたは知るでしょう。


2.あなたは徴、物理的証拠、内からの声に頼らなくなる


成長の重要な徴の一つは、あなたがもはや神に目に見える証拠や内側からの声によって、神ご自身を証明するように求めないことです。もちろん主はご自身の民へ語られます。イエスは、羊は主人の声がわかると言ってます。しかし、神が今日、ご自身の人々に使われる声は、啓示された御言葉なのです。へブル人への手紙はこう宣言しています。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、色々な方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(へブル人への手紙1:1〜2)

更に、聖霊が私達に語られる時は、私達にイエス様の言葉を思い起こさせる為です。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い出させてくださいます。」(ヨハネの福音書14:26)

もし、私達が内からの声や徴に頼るなら、私達はたいへんな妄想の世界に自らを晒す事になります。一つ例を挙げましょう。私は先日、デトロイトとインディアナでの、二つの教役者大会で話す機会がありました。この集会に向けて発つ前に、私は妻のグエンにこう言いました。「私には、このような集会で話す召しを神からはっきり示されていません。もしこの旅行て、神が私に何らかの徴を見せて下さらなければ、私はこれを続けません。私はタイムズスクエアチャーチで説教をするのが好きだし、それだけで十分です。それに、私は旅行をするのが大嫌いです。主が私に、はっきりと語って下さらないとね。」

デトロイトては、神が私の説教の言葉を祝福して下さいました。集会の後にまで数人の牧師達が、神に叫び、床に跪いてました。しかし、これでは、私に充分な証拠ではありません。後のインディアナポリスでは、予め私は祈りました。「主よ。私に今夜、明確な証拠を下さらなければ、これが私にとって最後の集会です。あなたが私に与えて下さった御言葉が、牧師達の心を貫いている事を見せて下さい。」

この祈りを、主の他に誰が聞いたのでしょうか。サタンです。突然、甘く、清らかな声が私に囁きました。「デイヴィッド。あなたは今夜、今までなかった証拠を目撃します。あなたは立っていること以外、何もしなくてよいのです。聖霊が力強く会場に臨み、全ての面で証が与えられます。」私は、「神に栄光あれ。これは素晴らしい。これこそ私が祈っていたものだ。」と考え喜びました。

主はその夜、また私に油を注いで下さいました。説教を終えた後、私はただ聖書を閉じ、祈りました。「主よ、よろしいですか。今度はあなたの番です。私が見るはずの証拠はどこでしょう?私はあなたがおっしゃったとおり、ただここに立っていますから。」

何も起こりません。数分すると聴衆達は、私が何をしようとしているのか、不思議に思い始めました。私は、「皆さん。どうか我慢して下さい。私はただ、聖霊を待ち望んでいるのです。」と、お願いいました。それでも、何も起こりません。ついに私は神に腹を立て始め、決断しました。「主よ、分かりました。私はこのことを、『もうこのような集会で説教するべきではない』徴として受け取ります。」

さて集会ですが、この時点で私は何をしてよいのか分かりません。ですから私は聴衆に、「私達皆で手を上げて、イエスをあがめようではありませんか。」と提案しました。全員が、静かに主を賛美し始めました。すると、神の素晴らしい、穏やかな御霊が、会場を満たしました。

突然私は、「牧師夫人達は祭壇へ来る」ようにと導かれました。私は彼女達に、「皆で、お互いの為に祈って欲しい。」と言いました。そうして彼女達は、手を取り合って祈り始めました。すると、主の優しい臨在が、この女性達の上に降りられました。彼女達は涙を流し、分かち合い、互いを抱きしめ合いました。神が彼女達に触れ、また癒したのです。そこには雷鳴も稲妻も、超自然的現象もありませんでした。それは、ただ静かで美しい、聖霊の御業がありました。

その翌朝、グエンと私は、ホテルのエレベーターの中で、一人の牧師夫人と挨拶を交わしました。彼女は輝いていました。あの集会によって人生が変えられたのだと、彼女は私達に言いました。まもなく、私達に他の、変えられた女性達や、結婚が新たにされた夫婦から証しが寄せられました。

私は、この素晴らしい御業が約束された力強い徴ではなかった事に気付きました。そしてすぐに、私達の敵が何をしようとしていたのかを理解しました。サタンは、私の神への願い、外見的な徴の求めを聞きていました。それを、私の働き、牧師達を立ち返らせ続けるを妨ぐ為に、利用したのです。彼は、「ほら、神はあなたの求めに応えなかったでしょう。これを、『やめなさい』の徴として受け取りなさい。」と言って、私を納得させたかったのです。

いいえ。神は私の前に扉を開て下さいました。そして私に、説教するメッセージを与えました。私はただ主に従い、御言葉を信頼し、全てを彼に委ねるべきでした。神はいつでも全ての事を、騒がしく、もしくは静かに、目に見えるように、又は見えないように、ご自身の方法によって行われるのです


3.あなたは、民族対立やの怒りからの暴力に、寛容に応じていますか。



成熟した信仰者が備わる最たる資質の一つは神に失われたの人間全てへの愛です。そのようなキリスト者は、ユダヤ人へもパレスチナ人も、又は、ボスニア人へもセルビア人へも、全ての人々を平等に愛を表します。

私は神が、世界情勢を治めておられると信じています。彼は御自身の永遠の御旨によって、流血事件や暴動さえも、司っておられるのです。今、中東は戦争寸前まです。タイム誌10月号は、「血まみれの丘」という題で、エルサレム神殿の丘について、掲載しました。そこは広さ35エーカーからなり、「岩の黄金ドーム」として知られているモスクが建っています。パレスチナ人はその寺院を「聖なる祭壇」と呼び、ユダヤ人はその地はイスラエルのものと信じています。イスラエルは、その「岩のドーム」を、

「預言者ダニエルの語った、立ってはならない所に立っている『荒らす憎むべきもの』」(マルコの福音書13:14)

として見ています。

ユダヤ人達は、このモスクが建っているその所に、イスラエルの神殿が建てられると確信しています。著名なラビの一人ハイム・リッチマンは、「岩のドーム」を指して、「神殿は他のどこでもなくここに建てられる。」 と言っています。ラビリッチマン氏の研究者達はすでに、聖職者用の祭祀服や、この第三神殿で必要な用具を用意しています。これらには、百万ドルのメノラ(金の枝付燭台)や、捧げる動物の採血用銀ミズラクも含められています。

タイム誌によれは、ラビやムラーは「神がその丘は血によってのみ取り返されると言った」と述べています。他の記事では、ユダヤ人達の第三神殿を建てる計画はすでに完結していると、書いています。ある有識者は、極右正統派ユダヤ人達がモスクを爆破しようと、ソロモンが造った地下トンネルを掘り通しているかもしれないと恐れています。一方、パレスチナ人達は、エルサレムはすぐに彼らの首都にな、と宣言しています。

どうか勘違いしないで下さい。私は決して、中東での暴力を願ってはいません。しかし、聖書は、イスラエルに戦争が起こる事をとても明らかに予言しています。ですから、もしもある朝、朝刊に、「アラブのモスク爆破:エジプト、シリア、イラク、イラン、そしてヨルダン全てが、イスラエルに宣戦布告」という記事を読んだとしても、驚くべにあたらないのです。

たとえ私達が一時的な平穏を見るとしても、聖書の予言とイエスの再臨の成就に速やかに近づいていると、わたしは信じています。世界的緊張が、激しい嫌悪、熾烈な戦い、人種間の暴力、民族間の大量虐殺と共に、高まるのです。そこで私達は、クリスチャンとしてどのように応えるべきでしょうか。私達は、嘆きの壁で祈っていたユダヤ人達に、上から石を落としたパレスチナ人達の魂を愛するべきでしょうか。パレスチナ人達を発砲して2千人余りを殺したイスラエル人達を愛するべきなのでしょうか?バルカン半島で何千もの人を虐殺したセルビア人、また、セルビアに報復したコソボの人々を愛するべきなのでしょうか?

完全に成長し、成熟した信仰者だけが、このイエスの言葉を受けいれる事ができます。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを迫害し、恨みを抱いて利用する者の為に祈りなさい。もしあなたの敵が空腹なら、食事を与えなさい。」あなたに訊ねます。あなたはパレスチナの病院で一ヶ月の間、イスラエルを滅ぼしてしまいたいと思っている兵士達を介護し、食事を与えている自分を想像できますか。来るべき日に、あなたが扇動的なニュースを読む時、あなたは偏見を抑える事ができますか。あなたは、イエスが十字架にかけられる時に、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか、分からないのです。」と語られた、キリストの内にあった同じ霊を、持つことができるでしょうか。

もしもあなたが、イエスが歩んだように歩むことを望むのなら、あなたは人間的な激情を、新聞の見出しで燃え上がらせるわけにはいかないのです。キリストは、中絶医、殺人者、強姦犯、そして子供に性的いたずらをする人々を含めた、この地球上の全ての失われたたましいの為に死なれたのです。今現在、私達の国の刑務所は、救いをもたらすイエスの愛の、力強い証人となった囚人達でいっぱいです。それ、誰かが彼らを彼らの罪に関わらず愛したからなのです。

あなたがもしも、世が忌み嫌っている人達をとりなしているなら、あなたは恵みあって成長しているでしょう。酷い出来事があっても、私達は自らの内に湧き上がる偏見に立ち向かい、そして又、「私はこの事においてキリストの権威を持つ。私は、人間を私の主が愛されたように愛する。」と、宣言するべきなのです。

ここに、私達の疑いの感情や、不安定な気持ちを静める、素晴らしい約束があります。

「あなたは聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:28〜31)

 



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