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「神に対する怒り」
"Are you mad at God?"


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By David Wilkerson
1998年2月16日
__________

私は、クリスチャンが神さまに対して怒りの思いを抱えていることほど危険なことはないと信じています。ところが、多くのクリスチャンに出会う中で、主に対するいらだちを抱えている人々が次第に増えつつあることにショックを覚えています。 このような人々はもちろん、誰もが自分がそういう思いを抱えていることを認めているというわけではありません。しかし、自分が意識してるとしないとにかかわらず、彼らは心の奥底で主に対する恨みを抱えているのです。彼らがそのような思いを抱えている理由、それは、神さまが自分の歩みや問題に関心を抱いて下さっていないということです。神さまは自分のことなど気にかけておられない。そのように思い込んでしまっているのです。それというのも、神さまが特定の祈りに応えていなかったり、自分のために働いていないと感じているからです。

最近、南部の刑務所に投獄されている一人の若者から手紙を受け取りました。この受刑者は、かっては熱心なクリスチャンだったそうですが、今は神様に対する怒りで一杯であるということでした。彼は次のように書いていました。

「僕は地獄のような場所にいます。神は僕をここに置き去りにするつもりですでしょう。僕はかっては、全身全霊をもってキリストに従いたいと思っていました。でも僕には自分ではどうすることもできない罪がありました。性的な罪でした。僕は何度も悔い改めようとしましたが、何の役にも立ちませんでした。 聖書を読み、勉強して祈りました。でも、無駄でした。いつも自分の罪に支配されていました。そしてその結果、僕は長い期間、刑務所にいなければならないことになりました」

「霊的な戦いにも見切りをつけました。そんなことをしても何にもならないように思います。クリスチャンになったときには、神は僕をドラッグとアルコールの中から助け出してくれました。それなのに、なぜこの性的な欲望はそのままにしておいたのでしょうか」

このひとの手紙は、どの便箋も神さまに対する苦々しい思いで満ちていました。彼は、自分の怒りが徹底的な憤りに変わっていくのを、なすがままにしてきたのです。

牧師たちの間にも同様の憤りを抱える人が増えつつあります。これは教派を問いません。彼らは神さまに対して幻滅し、燃え尽き、怒りを抱いています。そればかりか、彼らは神さまから受けた召命から離れて歩みつつあります。彼らに理由を尋ねてみると、このような答えが返ってきます。

「私は熱心で忠実でした。常に最善を尽くしてきました。ところが、一生懸命やればやるほど、得れれる結果は少なくなっていきました。教会の信徒たちも感謝してはくらませんでした。私の祈りはどれも空しく思われるようになりました。ある時、自分が説教の中で語っていることが、何もかも嘘のように思われました。というのも、自分の語っていることが、自分自身の歩みの中ではうまく働いていなかったからです。私は牧師を辞しました。しばらくはよく考えてみなちと思います」

しかし、このような牧師が再び牧師の職に復帰してきたという話しは、ほとんど聞いたことがありません。なぜでしょうか。それは、彼らが自らの苛立ち、神さまに対する苛立ちを捨てられないでいるからです。彼らは言います。「私はすべて正しいことを行いました。しかし、どれも自分の願ったようには行きませんでした。私は神さまに対して忠実であったのに、神さまの側で私を見放されたのです」

神に対する怒りに固執することからは恐ろしい危険、つらい
結果が生じてくる。これについては、私も最近、痛感するこ
とがあった。

最近のこと、私は『アギー』という題名の宣教師の伝記を手にすることがあったのですが、読んでいくうちに、本を途中で置くことができなくなりました。あまりに驚くべき話に心を捉えられ、読み始めたが最後、途中でやめられなくなってしまったのです。ここでは少し、みなさんのために話しを要約してみたいと思います。というのも、この話しは、クリスチャンが神さまに対する怒りを心に抱くことが、いかに破壊的な力となり得るかをありありと描き出しているからです。

1921年のこと、スウエーデンのストックホルムで、二組の夫婦が神さまからの召命に応え、アフリカへの宣教師となりました。彼らの所属していた教会はフィラデルフィア・ペンテコスタル・チャーチという教会で、世界中の様々な場所に宣教師を派遣している教会でした。彼らは、ある宣教礼拝の中で、ベルジアン・コンゴ、すなわち今日のザイールへの重荷を与えられました。

彼らはフラッド夫妻とエリクソン夫妻という二夫婦で、名前をそれぞれ、ディビッドとスベア、ジョエルとベルタといいました。スベア・フラッドは背の高さは四フィート八インチ(訳注:142センチ余り)と小柄な体でしたがスエーデンでは非常に名の知れた歌手でした。彼らはしかし、福音のために生きるべく、すべてのものを捨てたのでした。

歌手でした。彼らはしかし、福音のために生きるべく、すべてのものを捨てたのでした。

ベルジュアン・コンゴに着いた彼らは、地元の宣教基地に報告しました。そして、マチェーテ(訳注:中南米原住民が伐採用や武器に用いる長刀のなた)を手に取り文字通り道を切り開きながら、コンゴの奥地へと進んでいきました。ここは数限りなく虫の生息している場所でした。ディビッドとスベアには、まだ二歳の息子、ディビッド・ジュニアがおり、かれらはこの子を背中に負って進まなければなりませんでした。旅を続ける中で、どちらの家族もマラリアに感染していきました。しかし、かれらは非常な熱心をもって前進を続けました。彼らには、主のために命を捨てる覚悟ができていたのです。

やがて、彼らはその奥地にある村の一つにたどり着きました。ところが、驚いたことに、村人は中へ入れてくれようとはしませんでした。村人は言いました。「白人は一切、村にいれるわけにはいかない。我々の神々が不愉快な思いをするからだ」 そこで、宣教師の家族はさらに次の村へと向かいました。しかし、そこでも再び拒絶されることとなりました。

ここに至り、周囲には他に全く村がありませんでした。疲れ果てた二家族は、その辺りにこしを落ち着けるしかありませんでした。彼らは山のジャングルの中で、草木を払って開拓地を作り、そこに泥の小屋を作ってそれぞれの家としました。

数ヶ月が経ちました。彼らはいずれも、孤独と病気、栄養失調に悩まされていました。

子供のディビッド・ジュニアは病気がちになりました。村人たちとの交流は依然として、殆どありませんでした。

6ヶ月ほど経ち、ついにジョエルとベルタのエリクソン夫妻は、宣教基地に戻る決心を固めました。彼らはフラッド家も同じようにするようにと説得をしましたが、ちょうどスベアが妊娠をしてしまっており、旅ができる状態にはありませんでした。また、彼女のマラリアはますますひどい状態になっていました。そのようなことに加え、ディビッドは言いました。「子供はアフリカで生ませたい。僕はここに命を捧げるために来たのだから」結局、フラッド夫妻は、友人たちが再び百マイルもの道のり(訳注:160キロメートル)を帰っていくのを、手を振って見送ることとなりました。

スベアは、数ヶ月に渡って、激しい熱に苦しめられました。しかし彼女は、その間ずっと、近くの村から彼らに会いに来ていた一人の小さな男の子に対して、忠実に福音を語り続けました。この少年はフラッド夫妻にとって唯一の改宗者となりました。少年は彼らに果物を届け続けました。そして、スベアが語っている間、ただ彼女に微笑みを返しているのでした。

やがて、スベアのマラリアは非常にひどくなり、彼女は寝たきりとなってしまいました。そして、月が満ち、彼女は元気な女の子を出産しました。ところが、その日から一週間もしないうちに、彼女は死の床に着いていました。最後の息を引き取ろうという中で、彼女は息も絶え絶えにディビッドに語りました。「私たちの女の子、アイナって名前に----」そして、彼女は亡くなりました。

ディビッド・フラッドは、妻の死にひどく心を揺るがされました。彼はありったけの力を振り絞り、木箱を取り出してスベアのための棺をつくりました。そして、山の傍らに手慣れぬ墓を作り、愛する妻を葬ったのでした。

妻の墓の前に立ちつくし、彼は横に立つ息子を見下ろしました。泥の小屋からは生まれたばかりの娘の泣き声が聞こえてきます。その時でした。彼の心の中に、つらい思いが満ちあふれてきました。そればかりか、その思いはどうにも抑えることができなくなってしまいました。彼は怒りを爆発させ、叫びました。「神よ、あなたはなぜこのようなことをお許しになるのか。私たちはここに骨を埋めるつもりで来た。妻は非常に美しく、才能も豊かだったのに。それが、こんなところに眠っている。二七歳で死んでしまうなんて」

「私のもとには二歳の息子が残された。私では面倒を見ることなどほとんどできない。ましてや生まれたばかりの娘など、どうしてやることもできない。それに、このジャングルに来て一年以上にもなるのに、私たち成果といえば一人の村の少年だけだ。しかも、この子は私たちが教えてきたことなどほとんど理解していないだろう。神よ、あなたは私を見捨てたのだ。なんという人生の浪費であろうか」

そして彼は、地元の人々を数人、ガイドとして雇うと、子供たちを連れて宣教基地へと引き揚げました。「僕は帰る。ただ、二人の子供を一人で面倒を見ることはできない。息子はスエーデンに連れて帰る。娘はここに置いて行くから」 そう言って彼は、アイナを置いてその地を去っていきました。アイナはエリクソン夫妻の手で育てられることになりました。

彼の心の中に、つらい思いがみちあふれてきました。
心の中に怒りが込み上げてきました。そればかりか、
その思いはどうにも抑えることができなくなってい
ました。彼は怒りを爆発させ、叫びました。

ストックホルムへ帰る間ずっと、デイビッド・フラッドは船の甲板に立ちつくしていました。心は、神さまに対する怒りで煮えくり返っていました。スエーデンを発つ前、彼は会う人会う人に言っていました。自分はアフリカに命を捧げる。いかなる犠牲を払っても、人々をキリストのもとに勝ち取るのだ、と。それがいまや打ち負かされ、心傷ついた状態で帰途についているのです。自分は忠実にやってきた。それなのに、神はそれに報いることなく、全く目を留めようとはしなかった。彼はそのように思っていました。

ストックホルムに帰り着くと、彼は輸入の事業を始め、富を得ることを求め始めました。そして、周囲の人々に対し、自分の前では絶対に神についての話しはしないようにと命じました。うっかり神さまの「か」の字でも口にしようものなら、彼は、首筋に血管を浮かび上がらせ、烈火のごとく怒り狂うのでした。彼はやがて、酒に溺れるようになっていきました。

彼がアフリカを去って間もなく、友人のエリクソン夫妻は突然亡くなってしまいました(恐らくは、地元の村の酋長に毒を盛られたのだろうということです)。そこで、赤ん坊のアイナは、あるアメリカ人夫妻に預けられることとなりました。彼らは私も知っている素晴らしい人々で、アーサー・ベルグ、アンナ・メルグという夫婦でした。ベルグ夫妻は、アイナを引き取り、北コンゴにあるマシシという村へと連れて行きました。彼らはそこで、アイナを「アギー」と呼ぶようになり、コンゴの子供たちと遊ぶようになりました。

また、アギーは、一人でいる時にはその大半の時間を、想像の世界の中で遊ぶようになりました。彼女の想像の世界には、四人の兄弟と一人の妹が住んでおり、彼女はそれぞれに対して、想像上の名前を付けていました。そして、弟たちのためにテーブルを置いては彼らに語りかけていました。また想像の中の妹は、たえず彼女を捜してくれているのです。

やがてベルグ夫妻は、休暇でアメリカに渡ることになりました。彼らはアギーを一緒に連れて行き、ミネアポリスの辺りを訪れました。そして結局、そこに移り住むことになりました。やがてアギーは成長し、デューイ・ハーストという男性と結婚しました。彼は後に、アッセンブリー・オブ・ゴッド教団がミネオポリスに開いていた、ノースウエスト・バイブル・カレッジの校長となる人物でした。

成人してから何年もの間、アギーは父親に連絡を取ろうと
してみたが、いずれも徒労に終わっていた。
この男性が、母親の伝道をしてクリスチャンになったその小さな
男の子であるなど、にわかには信じ難いことでした。彼は成長し
て、自分の国で宣教師として、伝道者として働いていたのです。
この国は、その頃までには、11万人のクリスチャンと32の宣教
基地を抱えるようになっていました。

アギーは、父親のディビッド・フラッドが再婚しているとはつゆだに知りませんでした。再婚の相手は実にスベアの妹だったのですが、彼女は、神さまに対する思いなどかけらもない人でした。かれにはいまや、アギーの他に、四人の息子と一人の娘という(まさにアギーが想像の世界で遊んでいた通りの)五人の子供がありました。彼はこの頃までには、完全にアルコール依存症になってしまっており、両目の視力もひどく衰えつつありました。

アギーは40年間、父親を捜し続けました。しかし、手紙を出しても返事が戻ってきたことは一度もありませんでした。やがて、夫の働く聖書学校が、二人にスエーデンまでの往復の切符を贈ってくれることになりました。これはアギーにとって、自ら父親を捜しに出かける機会となるものでした。

大西洋を渡った彼らは、途中で下船をし、ロンドンに一日滞在することにしましたが、ぶらぶらと歩く中でロイヤル・アルバート・ホールのそばを通りかかりました。折しも、ペンテコスタル・アッセンブリーズ」・オブ・ゴッド教団の宣教大会がひらかれている最中でした。彼らは小躍りしました。中に入ると、黒人の説教者が、神さまがザイールでなさっている素晴らしい御業についての証しをしていました。ザイール。そうです。あのベルジアン・コンゴのことでした。

アギーは胸が高鳴りました。集会が終わると、彼女はその説教者のもとに駆け寄り、尋ねました。「失礼ですが、宣教師だったディビッド・フラッドとスベア・フラッドはご存知ですか」彼は答えました。「もちろんですよ。子供の頃、私を主のもとへと導いて下さったのは、スベア・フラッド先生だからです。お二人には女の赤ちゃんが生まれたのですが、今はどうなっていることか、ちょっとわかりません」アギーは叫びました。「私がその赤ちゃんだった者です。アギーです。アイナです」

説教者はこれを聞くと、アギーの手を握りしめ、肩を抱いて喜びの涙を流しました。この男性が、母親が伝道をしてクリスチャンになったその小さな男の子であるなど、にわかには信じ難いことでした。彼は成長して、自分の国で宣教師として、伝道者として働いたのです。この国は、その頃までには、11万人のクリスチャンと32の宣教基地を抱えるようになっていました。また、聖書学校もいくつかできており、120床ある病院もできているということでした。

翌日、アギーとデューイはストックホルムへと向かいました。二人がやって来るという噂は、すでにストックホルムにも広がっていました。この頃には、アギーも四人の兄弟と一人の妹があるということを聞かされていました。そして驚いたことに、そのうちの三人の弟は、ストックホルムのホテルまで会いに来てくれたのでした。アギーは尋ねました。「ディビッドはどこ? お兄さんは?」彼らはただ黙って、ロビーの反対側に一人座っている人物を指さしました。アギーの兄、ディビッドでした。彼の顔はすっかりしわだらけで、髪も白髪になっていました。父親と同様、彼も怒りの思いを心に抱えたまま大きくなったようで、人生をアルコールでぼろぼろにしてしまっていました。

アギーが父親について尋ねると、兄弟の表情には怒りが走りました。彼らはみな、父親のことを憎んでいたのです。誰も、父親とは何年も話しをしていないということでした。

そこでアギーは尋ねました。「妹はどうしているの?」彼らは電話番号を教えてくれました。アギーがすぐに電話をかけると、妹が出ました。ところが、アギーが自分が何者であるかを名乗ると、電話はすぐに切れてしまいました。何度もかけ直しましたが、答えはありませんでした。

ところがそれからほどなくしてのことです。妹がホテルに駆け込んできたのです。彼女はアギーの体に腕を回し、言いました。「私はこれまでずっと、夢の中でお姉さんのことを思い続けてきたんです。子供の頃はよく世界地図を広げて、その上をおもちゃの車を走らせながら、お姉さんをあちこち捜し回るまねをしてたんですよ」

アギーの妹もまた、父親ディビッド・フラッドのことは軽蔑していました。しかし、それでも彼女は、アギーが父親を探すのは手伝うと約束してくれました。彼らは、ストックホルムの貧困地域へと車を走らせ、荒れ果てたビルに入りました。そして、ある部屋扉を叩くと、一人の女性が扉を開き、彼らを中へと入れてくれました。

中には、酒瓶が足の踏み場もないほどに散乱していました。部屋の片隅には簡易ベッドがあり、男が一人横たわっていました。この男こそ、アギーの父、かっての宣教師、ディビッド・フラッドでした。彼は73歳になっており、糖尿病で苦しんでいました。また、心臓発作に見舞われたこともあり、両目は白内障に覆われてしまっていました。

アギーは彼のそばに崩れ込み、泣きました。「お父さん。あなたの娘です。あなたがアフリカに置き去りにした娘です」老人は体を向き直し、彼女を見つめました。彼のまぶたにはみるみるうちに涙があふれました。彼は答えました。「おまえを捨てるつもりはなかったんだ。ただ、子供を二人も育てることはできなかったんだ」アギーは答えました。「いいんですよ、お父さん。私のことは神さまが面倒を見て下さいましたから」

突然、父親の表情が曇りました。「神か。神などがおまえの面倒を見るわけがない」彼は怒りの声を上げました。「神は私たちの家族を根こそぎずたずたにしてしまった。私たちをアフリカに連れて行き、そこで私たちを裏切った。あそこで過ごした日々からは、何の良いものも生まれてこなかった。人生の無駄遣いだ」

アギーはそこで、ロンドンで会ったばかりの黒人説教者のことを語り、彼を通してかの国にいかに福音が伝えられているかを語って聞かせました。「本当のことなのよ」彼女は言いました。「あの神さまを信じた小さな男の子のことを知らない人はいないのよ。この話しは国中の新聞でニュースになっているんだって」

突然、聖霊さまがディビッド・フラッドの上にお降りになりました。彼は心を砕かれました。悲しみと悔い改めの涙が頬を流れました。神さまは彼を回復してくださったのでした。

アギーが父親に出会ったこの日からしばらくして、ディビッド・フラッドは亡くなりました。彼は再び主のものとして回復されました。しかし、彼がアギー以外の5人の子供たちを残しましたが、彼らはみな、キリストの救いを受けておらず、さらに、心に怒りを抱えているという悲劇的な状況にある人々ばかりでした。

この話を書いたのはアギー本人です。彼女も、この本を書いている中でガンを発病してしまいました。そして、この本を書き上げた直後、彼女もまた主のもとへと召されていったのです。

このメッセージは、信じるすべての人々に向けられたもの
である。ディビッド・フラッドのように、彼らには神に対し
て怒りを抱く権利がある。
「私は祈りもしているし、聖書を読んでいる。神の御言葉に
従ってもいる。それなのに、なぜこのような問題が私の上に
降りかかってくるのか。なぜ私は、神が約束して下さった祝福
を目にすることがないのだろうか。私は神に見捨てられたのだ」

ディビッド・フラッドは現代の多くのクリスチャンを代表しています。彼らは失望し、落ち込んでいます。そして、神さまにたいする激しい憤りに満ちています。

このような状態について、聖書は私たちに一つの例を与えて下さっています。ヨナ書です。ディビッド・フラッドのように、ヨナもまた、神さまから宣教師になるようにと召命を受けた一人でした。ヨナはニネベに赴き、神さまから与えられた裁きのメッセージを語ります。それは、ニネベの町が40日のうちに滅ぼされてしまうというメッセージでした。

ヨナはこのメッセージを語り終えると、丘に登り、神さまが町を滅ぼしてしまうのを待つことにしました。しかし、予定の40日が経っても何も起こりません。なぜでしょうか。ニネベが悔い改めたからです。これによって神さまは、彼らを滅ぼしていまうという心を変えてしまわれたのです。

ところが、このことはヨナを怒らせてしまいました。彼は叫び声を上げました。「主よ、あなたには裏切られました。あなたは私の心に、ここにきて裁きの言葉を語るとうい重荷を与えて下さいました。このことは、イスラエルの人々もみな知っています。ところが、あなたは今、私に何の相談もなく、何もかもすべてを変更してしまわれました。私はまるで、偽預言者のようです」

ヨナは焼けつくような太陽の下で、ふくれっ面をして座っていました。彼もまた、神さまに対する怒りの思いに満ちていました。ところが、神さまはその憐れみから一本の植物を生やし、ヨナを太陽の熱から守らせました。「-----彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。」(ヨナ4・6新改訳)

ここで「不きげん」とされている語は、原語では「不愉快、失望」などとされている語は、原語では「不愉快、失望」などといった意味を表わします。簡単な言葉で言い換えるならば、ヨナは、物事が計画された通りに進まなかったために悲しんでいた、ということになります。神さまがご計画を変えられたために、ヨナの自尊心は傷つけられてしまったというわけです。

失望------これこそ、多くの場合、神さまに対する怒りの始まるポイントとなります。神さまは私たちを召し、重荷を与え、送り出されます。しかし、時としてご自分の主権の中で、私たちに告げることなくご計画を変更なさいます。そのような結果、物事が自分たちの計画した通りに進まないとき、私たちは、騙された、裏切られたと感じるのです。

この点において神さまは、私たちが心の痛みや混乱から上げる叫び声を理解して下さいます。この叫び声は人間的な叫びです。これは、「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という、イエスさまの十字架上の叫びと全く変わりません。

しかし、もしも怒りの思いを抱き続けるならば、それは私たちの内側にあってさらに激しい憤りへと肥大していきます。神さまは、ヨナになさったのと同じ質問を私たちに尋ねてこられます。「-------、あなたは当然のことのように怒るのか」(9節、同)これは、言い換えるならば、「おまえは自分がそこまで怒る権利があると思っているのか」という意味になります。

ヨナは答えました「私が怒るのはもっともなことです。この怒りは死ぬまで消えません」聖書には次のようにあります。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」(同、同)ここには、戸惑い、苛立ち、神さまに対する憤りに満ちた預言者の姿があります。彼は言いました。

「自分が死のうが生きようが、そんなことはどうでもいいんです。私の働きは失敗に終わりました。私の味わっている苦しみなど、何もかも空しいものです。私は、鯨の腹のひどい悪臭の中で三日三晩の時を過ごしました。それは何の為だったのでしょうか。神は私に関して、何もかもすべてを変更してしまいました。私が怒るのはもっともなことです。」

ヨナのような状態に陥ってしまっているクリスチャンは多く見られます。彼らは、自分が神さまに対して怒りを覚えるのはもっともなことであると感じています。彼らは次のように考えています。「私は祈りもしているし、聖書を読んでもいる。神の御言葉に従ってもいる。それなのに、なぜこのような問題が私の上に降りかかってくるのか。なぜ私は、神が約束して下さった祝福を目にすることがないのだろうか。私は神に見捨てられたのだ」

神に対する怒りと苛立ちを抱え続けることの最も大きな危険は、
慰めが与えられるはずの場所を越えて飛び出してしまうかもしれ
ないということである。

あなたがもはや触れられることのできない場所にまで至ってしまうこと、これは充分に有り得ることです。この場所に至ってしまうなら、あなたを慰めるこののできる人やものは、もはや何も残されてはいません。

エレミヤは次のように書いています。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」(エレミヤ 31・15 新改約)

エレミヤがこれを書いた頃、イスラエルはアッシリア人に捕らえられ、捕囚の身にされようとしているところでした。家々は焼かれ、破壊され、ブドウ畑はすっかり荒れ果ててしまっていました。エルサレムは瓦礫の山と化してしまっていました。人々の周りにあるものは、いずれも廃虚や荒廃といった以外の何物でもありませんでした。そこで、エレミヤは、イスラエルの先祖であるラケルを取り上げ、涙を流す存在として用いました。子供たちが奪われるのを目の当たりにして心を打ちひしがれ、誰も慰めてくれる人のない女性としてラケルを用いたのです。

ここでエレミヤが語っていることは、一言で言うならば、イスラエル人が自分たちの悲しみの中に嘆きを打ち立ててしまったこと、それによって彼らは一切の慰めを越えたところに至ってしまったということです。エレミヤは、彼らを慰めることができませんでした。そればかりか、彼らに言葉をかけることすら用をなさないことでした。彼らが心の中で考えていたことは、自分たちが囚われの身になることを赦されたのは他ならぬ神ご自身である、ということであり、自分たちは神に対して憤りを抱くだけの権利があるのだ、ということでした。

しかし、ここに危険があります。私たちがあまり長い間、心の中に疑問や不満を抱えたままでいるなら、それはやがて苛立ちへと変わっていきます。この苛立ちはやがて、怒りや苦々しい思いへと変わっていきます。そして、それはついには憤りへと変わってしまいます。ここまで来ると、私たちはもはや、自分を叱責する声に耳を傾けることができなくなります。神さまの御言葉も、私たちを変えることはできなくなります。また、友人であれ、牧師であれ、伴侶であれ、誰も私たちに手を差し伸べることができなくなります。そればかりか、私たちは、聖霊さまが優しく語りかけて下さる言葉も、一切拒絶してしまうのです。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされる
ことなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分
たちの苦労が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

自分がまさにこの慰めを拒絶するポイントを越えようとしていると

いうことを認める人々に対しては、素晴らしい知らせがある。

神さまの御言葉は語っています。希望はある、と「主はこう言われる。泣き止むが良い。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る」(エレミヤ 31・16、新共同訳)これは、言い換えるならば次のようになります。「泣くのはやめなさい。愚痴を言うのもやめなさい。私はおまえの忠実さに見合った報酬を与えるから」

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(第一コリント15・58,新改訳)愛するみなさん。あなたの叫びと祈りは、決して空しく地に落ちることはありません。あなたの抱えておられる痛みや流された涙には、必ず何らかの目的があるのです。

神さまは語っておられます。「おまえは、何もかも終わってしまったと思っている。おまえには、挫折したこと、何もかもがだめになってしまったこと、何の結果も得られないことなど、自分の身の周りのことしか目に入っていない。おまえは言う。『もう終わりだ』しかし、私はこう言おう。これは始まりに過ぎない、と。わたしはおまえに対する報酬を用意している。私は恵みをおまえの上に注ごうとしている。おまえのためには良き物、素晴らしい物を用意している。だから、泣くのはやめなさい」

愛する聖徒のみなさん。聖霊さまはあなたの抱えておられるすべてのつらい思い、怒り、憤りを、それがあなたを破滅へと追いやってしまう前にいやしていまいたいと願っておられます。どうか、この神の御霊にに身を委ねてください。あなたの目に見えているものは、ただ自分の周りを取り巻く悲惨な状況だけであるかもしれません。しかし、神さまが目にしておられるのは、すべてのものが回復されることです。神さまに身を委ね、自分を取り巻く荒れ果てた悲しみ中から、本来あるべき恵みの中へと、神さまによる回復を受けてください。神さまがあなたのためにお用意下さっているこの、それはいずれも良きものだけです。なぜなら次のように語られているからです。「-------、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である-------」(ヘブル11・6、新共同訳)ハレルヤ ! 主をほめたたえましょう。

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